1. 生きもの広っぱがめざすもの
サンクチュアリ本来の意味
あらためて、生きもの広っぱがどんなものをめざしているかについて書きます。
僕が議会でサンクチュアリとしての野鳥園という名で提案した、現在の「生きもの広っぱ」は、何度も書きますが、府の承認をえて、市の都市計画には、そのままサンクチュアリとして記載されています。
サンクチュアリー(Sanctuary)の日本語訳は「聖域」ですが、自然保護の文脈では「鳥獣保護区」や「生息環境保護区」です。
サンクチュアリの本来の意味の聖域については、神聖な場所への「立ち入りを制限する」という意味があります。人間と生きものとの関係で言えば、サンクチュアリは、生き物が逃げ込み、かつ守られる隠れ家で、ここでは人間が生き物に場所を明け渡す土地、空間になります。
かつて古代人が森を「聖なるもの」として畏怖し、崇めた場所です。
日本のビオトープとドイツのビオトープ
昨日、古川事務所では元会長の養父さんの話もでました。当時、僕も「湾岸ビオトープ」などと呼んでもいましたが、僕はもともと英語よりドイツ語が専門だったので、ドイツの文献に触れるにつれて、日本のビオトープとドイツのとは雲泥の差があり、僕の考案したサンクチュアリは、日本型ビオトープではなく、発祥地であるドイツのビオトープに近しいとわかりました。
ドイツは「自然の保護と再生という法的義務」があるのに、日本でのビオトープは、人間とりわけ子どもたちの環境教育として、「自然に親しむ」ということが目的だから、箱庭的な小規模な空間で、実際、関係者はそのようにイメージでビオトープ作りをしています。個々の生物は、こうしたビオトープでは、単なる観察の対象にしかすぎません。
世界の資本主義国は、とりわけ1960年代に急速な工業化による環境破壊で行き詰まりました。ドイツの、1976年の連邦自然保護法は、生物の生息空間(ビオトープ)を都市計画や土地利用において義務的に守り再生するという考え方です。
ドイツのビオトープは「生き物の立場」で人間社会の構造を強制的に変えるもので、僕が言い続けているように、それはまさしく人間と自然の対立、人間の自然支配、人間中心主義、そうしたものの克服です。
生息地ネットワークの一部として
この生きもの広っぱは、地球上の生命が共有するネットワークの一部としてもあり、地域的に言えば、生きもの広っぱは、大阪湾、男里川、天神の森、男神社の鎮守の森、あるいは点在する溜池といった生息地ネットワークの一部です。
だから、僕が会長になってから、曖昧な日本語のビオトープという言葉は、使わないことにしたのです。
僕は、議会での立論は、りんくうタウンという、海を埋め立てて作った商工業用地には、せめてその南端にサンクチュアリ(自然再生公園)をという主張でした。
この論点から始まって、今後、生きもの広っぱは、一定のタイミングで、自然再生公園と法制化されるのです。
「自然再生公園」とは何か
国指定の都市公園における「自然再生」を目的とした公園とは、長年の都市化によって失われた生物の生息環境を復元し、都市の中に自然の生態系を取り戻すために整備される公園のことを言います。
制度上の明確な「自然再生公園」という固有の種別があるわけではありませんが、主に国営公園の事業として、以下の定義や特徴に基づいて整備、管理されています。
都市公園の主な定義と目的は、都市公園法に基づいて、国土交通省が整備する国営公園の中で、「失われた自然環境の再生」を主眼に置いたプロジェクトとして定義されます。
(1) 生態系の復元
その土地本来の植生(潜在自然植生)を回復させ、鳥や昆虫などが生息できる環境を整える。
(2) 学びと体験の場の提供
自然を単に保護するだけでなく、市民が自然のプロセスを学び、体験する場を提供する。「多様な主体の参画を」ということで、行政だけでなく、NPO、専門家、市民が協力して維持管理やモニタリングを行う。
(3) 普通の「緑地」との違い
普通の都市公園が「レクリエーション(運動や遊具)」を主目的とするのに対し、自然再生を目的とした公園は「プロセス」(発芽、成長、枯れ死など)を重視します。
森に終わりはなく、植樹し、森が育ち、生き物が戻ってくるプロセス(process)そのものが自然公園の価値です。だから管理の最小化を頭に入れ、剪定や除草は、自然の遷移(センイ/うつりかわり)を優先します。
言い換えれば、いつも話しているように、人が自然を破壊してきたのだから、百年、千年ならともかく、十年単位での自然の再生は、始まりを人の手でやるしかありません。しかし森の植物があるところまで大きくなると、人は手を出さないで、木の枝の伸びる、葉の広がる、花の開く、根を生やすは、自然のまま(遷移)に任すということです。
こうして、国指定の自然再生を目的とした公園は、都市における「生物多様性の拠点」としての役割をになっているのです。
2. 苗木植えと「事事無礙」の世界
粘土質の土壌に咲いた花
今回の苗木植えは、鎮守の森作りとは外れてはいるものの、この粘土質の土壌で、よく花が咲いてくれたなと、みんなの苦労に感じ入っています。
花が咲くということは、みんなの穴掘り、肥料やり、水やりなどの労力がそこに結集し、根は水と栄養を吸い上げ、葉は海風にあおられながらも、日の光を浴びて光合成し、この地に命を受けたということです。蝶や虫が集まって蜜を吸い、花は受粉します。
このように、草木が助け人の手を超えて、生命が一斉に溢れす、こういう流れを華厳教では、事事無礙(じじむげ)と言います。つまりこの世界の事の一つひとつが、互いに溶け合っている、調和しているということです。
仲間の宗派と日本仏教
三日前、河南町に行ったとき、辻井さんは真言宗の檀家だとわかり、大東さんは浄土宗と浄土真宗、渡邊さんは浄土真宗で、小林さんは天台宗、辻野さんは浄土宗です。僕の先祖は曹洞宗なので、だいたい日本の仏教が、勢揃いしているようで、壮観です。
先述した華厳宗は古いが少なく、奈良の大仏で知られているくらいでしょう。
哲学と仏教の橋渡し
僕はヨーロッパ哲学が専門ですが、それでは専門外の人にはなかなか通じません。日本文化の古層には、アニミズムの土壌に神仏が組み立てられていると思うので、現在進行形の生態系の破壊や種の雑滅を乗り越えるための考え方の根本的な転回(存在論的転回)を図るには、仏教の言葉と考え方を取り込むことも大事かなと、僕は考えています。
逆に以下のこともあります。
ギリシャ、キリスト教、科学精神といったもののこのどれ一つをとってみても、なみの日本人としての生活感情を生のままで、それをもったままで近づいて行って、ごく自然にこの三つのものの、どれ一つとして自然にわれわれのなかへ入って来てくれるというものではない、と思われるのである。
― 堀田善衛全集(1976年版 第13巻 p.3)
欧米の哲学や宗教をやってきたものにとっても、同じような困難さを感じます。
